◆【 宗吾と甚兵衛 】

mayupop2006-06-22

今日もちょぴっと歴史的なお話を・・・


mayu家全員が大好きな 蕎麦屋さんが、成田市の宗吾というところにあります。


名前は 『 甚兵衛そば 』


一日に売る量が決まっていて、売り切れになった時点で閉店となってしまうお店です。
mayu家はもう何度もお店に足を運んでいますが 、いつもお昼頃に行くので、
まだ食べ損ねたことはありません。


このお蕎麦屋さんのお品書きには、看板を背負っている


名物甚兵衛そば(ざるそば) 」 と 「 温かいそば(は、1種類か2種類) 」


しかありません。


甚兵衛そば 」は写真のように、 
船の形(横には“甚”の文字)をした器で出てきます。


mayuはこの船を毎回 2枚 食べます。
念の為に断っておきますが、2枚というのは Food Fighter mayu だからではなく、
このお店では結構普通の光景(のはず)です・・・・


ほっ・・・本当ですって・・・・・・


ご高齢以外のMenは3枚が(多分)通常枚数ですから・・・・・


えっと・・・・なんで「 甚兵衛そば 」は船の形をしているかというと・・・
このお店のご先祖様が、佐倉宗吾を助けた船頭さんだったからだそうです。


で、その助けられたっていう佐倉宗吾って人物は、
公津村(現:成田市公津)の名主総代で、承応元年(1652年)、 
凶作と重税に苦しむ農民 のため、江戸に出て将軍様への直訴を決行。


しかし、将軍様への直訴は超御禁制の為、その場で取り押さえられ、後日磔刑にされた人です。


将軍様に直訴するにあたり、最初は数人の名主が共同で直訴するって言ってたのですが、
直訴ご法度の死罪は免れたいのと、大人数だと目立ってしまうため、
最終的に宗吾1人で行くことになったそうです。


当時、農民が土地を離れることは、特殊な場合を除いて、絶対に不可能なことだった為、
宗吾ひっそり、こっそり隠密に行動。     それじゃぁ、余計に目立ちますから・・


そして、印旛沼の渡し守甚兵衛 もこれに協力して、本来渡してはいけない沼を
死罪覚悟で渡して、宗吾を見送ったということです。



しかーし・・・・・実は・・・・



この惣五郎 一 揆(宗吾の本名は木内惣五郎というので)直訴についてを
証明する資料はなく、宗吾伝説が作られる過程において、
色々とくっついちゃったんじゃなかと言われています。


ただ惣五郎というお百姓さんがいたことだけは、当時の帳簿が残っていて確かだそうです。


そんなんで・・・


『 自分の命を顧みず、農民を代表して将軍様に直訴した惣五郎のおかげで、
         その後3年間年貢の減免が行われ、農民たちは救われた 』


      という 英雄伝説  を持つ一方、


『 惣五郎の処刑後、さらに年貢は多くなり、公津村は以前よりも増税して
          徴収されたため、公津村の農民はかえって惣五郎を恨んだ 』


  という、“ オレのせいかよby 惣五郎 ”  なトホホ 話もあります。


このお蕎麦屋さん、千葉県に越してきた時、mayu父が知人から教えてもらったお店なんですが、
なかなかの有名店 のようです。
もし近くに行くことがあったら、是非食してみて下さい。


ちなみに 電車だと、京成線「宗吾参道駅」なんですけど、徒歩でかなりあると思われます。